2015年7月2日木曜日

邪馬台国はやはり九州か


僕は、古代の歴史を考えるのが趣味でして、毎日の様に古代を探るヒントを探しているんです。


誰かがすでに論文で書いているとは思う事でも、僕なりに考え答えを出していく、それが趣味なんです。


そうして日常から歴史を解読していくのが楽しいのです。 (僕がよく話す前方後円墳が後々、菊の御紋に変化したという話は、こうしたことから気がついた一つです。)

自分で答えを見いだしたい・・・そうする事で考える筋力が付くと信じています。


そこで、邪馬台国なのですが、僕はほぼ毎日、魏志倭人伝の邪馬台国へのルートを書いた文章と地図をパソコンの目につくところに貼付けて読むようにしています。

なるべく原文を読む方がいいです。古代人の言葉が息づかいすら感じるほど聞こえてくるからです。翻訳したものは、翻訳者の勝手な解釈が入り、余計に悩ませます。
その解釈は僕には不要のもので、ほとんどの解釈が間違っているように思えるからです。


そこで、原文を毎日眺めていたら、ようやく文章のある変化に気がつきました。


それは、途中の伊都国(いとこく/僕は「いづこく」だとおもう。出雲、伊豆に繋がっていく)からの表記が全く変わるのです。そして、見ていくうちに、伊都国の重要性、邪馬台国の外交のための役所があったことや、倭人伝どおりに地図を辿れば、伊都国はちょうど吉野ケ里遺跡の場所と重なることに気がついたんです。

だから倭人伝の邪馬台国へのルートはほとんど、熊本や薩摩のあたりの航行ルートだと思われます。僕はいままで瀬戸内だと信じてきましたが、一気に崩れてます。



これは、邪馬台国九州説では定説の、伊都国からはそれぞれ放射線状に国の位置を説明したものという放射説(榎一雄氏)に非常に近く、僕もだんだんとこの伊都国から後の国は放射線状に説明していると思うようになって来ました。


いままでは、断然 邪馬台国近畿説だったのですが、疑問もあったんです。

倭人伝中の方角が南に行くと言っているのに、実際には近畿は東にあるし、混一疆理図(右図)では日本は南に伸びているから、南は東の誤りだというのが近畿説派の言い分は、ちょっと強引な気がする。



そもそも今以上に方角が重要だった古代人が東と南を間違えるはずがない。 神武東征や、神宮の配置などをみても、東を重要視し、ちゃんと方角を認識しています。


そして奴国(なこく)という邪馬台国へいく途中の重要な国。

これがどうしても僕には「奴 / な」とは読めなかった。奴国は、那の津(なのつといわれた博多のことだと学者さんは言いますが、奴を「な」と呼ぶのには少々無理がある気がする。金印(漢の委の奴の国王)が出土したからだと思うが、博多は昔から「はかた」だと思う。

博多は、井沢元彦氏が言っていたように倭人伝中に出てくる「好古都国」ではないかと思っている。中国音で「ハォコト」になることから。

博多を奴国と決めつけたらいけないと思います。


では、僕の思う奴国は何処? それがやっと見つかりました。



長くなったので、これは次回に持ち越します。




深堀隆介
Riusuke Fukahori















1 件のコメント:

  1. 初めまして。
    愛知県に住んでいます。
    伊勢丹での展示と所用とがリンクしましたので、絶対に見たいと出かけましたが、西武新宿えきから、なぜか伊勢丹にたどり着けず電車の時間が迫り、目前にて断念しました。
    本当に残念でした。
    邪馬台国、とても興味があるテーマです。このようなお話しも聞けて又拝見する楽しみが増えました。
    私も近畿説でしたが、最近は九州かもと思っています。
    これからも楽しみに拝読させていただきます。

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